伊藤左千夫 「野菊の墓」
おそらく多くの方が「野菊の墓」の作者としてご存知の伊藤左千夫ですが、この人は小説家というよりも歌人といったほうがいいほど、小説よりも短歌のほうで活躍した人です。正岡子規を師と仰ぎ、島木赤彦や斉藤茂吉らとともに短歌の一時代を築きました。そういうわけで小説として残した作品は実は少ないのです。その中で最初に書いたのがこの「野菊の墓」です。これは夏目漱石によって評価されたことからもその水準の高さがうかがえると思います。子規の提唱する”写生文”の影響を受けた文章は極めて美しく、描かれる物語もまた美しく、そして悲しいものであり、名作であることを否定する人はいないと思います。この作品は名場面のセリフが自然であり、かつ美しく情緒的で心に深く残ります。例えば15歳の主人公政夫が遠まわしに17歳の従姉の民子に愛を告白するシーン(「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」「それで政夫さんは野菊が好きだって……」「僕大好きさ」)などは実にほのぼのとしており、純粋な水のように透き通った愛にあふれて微笑ましいものがあります。ところがその淡く美しい初恋は周囲の大人たちによって引き裂かれます。最後のシーンはもう涙で字がにじんで読ないほどです。文章も物語も美しい、日本文学が誇る名作中の名作です。一度だけでなく何度も読み返してお楽しみ下さい。