葛西善蔵 「遊動円木」
葛西善蔵を語る場合にはまずその破滅的な生き方が注目されます。常に貧乏の極致にいて家族や友人に迷惑をかけてばかりの生活なのに浴びるように酒を飲み、(その酒量のすごさは半端じゃありません)酔っ払った状態で極めて優れた作品を生むわけですから、天才というのは何を考えているかわからないものです。彼の文学への取組みにおける特徴として言えるのは、そういういわば”ろくでなし”状態を保つことがまずあげられます。そしてもう一つは友人を作品のモデルにすることです。それも平気でボロクソに書いたりします。当然友人は憤慨します。いわばだしに使うわけですから、そんなことを繰り返すうちに当然友人も離れていきます。この作品もそういういわくがついてるので、そのへんを理解した上で読むとまた興味深いです。内容としては主人公が奈良にいる友人夫婦のもとに一週間ほど遊びに行って、ある夜に夫人が公園の遊動円木に上手に乗ってみせるというこれといった起伏のない話なんですが、その友人というのが広津和郎のことらしいのです。友人は作品の中でも自分を小説の中で悪く書いたと抗議するシーンがあり、主人公は弁明しています。つまりはこういう諍いを葛西善蔵と広津和郎は度々やっていたようです。葛西善蔵の臨終の時にも広津和郎は枕元で難詰したということで、結局和解せずに終わったようです。小説のモデルにされて悪く書かれた人は広津和郎だけではなく、多くの友人があまり好意を持っていなかったようです。天才にとっては生活も友情も作品の材料にすぎないということなんでしょうか?何もかも犠牲にして文学に昇華させようとするなんて、まるで文学という宗教に身を捧げたかのようです。やはり天才の心中を推し量ることは難しいですね。